前日思い立ち、雨上がりの桶狭間へ
出発まで
今回のテーマ
信長が見た地形を自転車で
鳴海城包囲戦
離反と謀略、そして包囲へ
地形図で読み解く三砦の配置と役割
現地の様子
大高城
前夜の兵糧入れ、そして未明の総攻撃
籠城するか、討って出るか
桶狭間
今川義元の誤算
狙うは義元の首ただひとつ
夢のあと
最後に今川義元が出撃した沓掛城跡へ向かいました。土塁や空堀などが残っていて見どころいっぱいありそう。けど日が暮れるまでに知立まで走る予定だったのでじっくり見ることはできなかったのが悔やまれます。
最後に今川義元が出撃した沓掛城跡へ向かいました。土塁や空堀などが残っていて見どころいっぱいありそう。けど日が暮れるまでに知立まで走る予定だったのでじっくり見ることはできなかったのが悔やまれます。
レトルトカレーを購入後、工場の正門側に行ってみました。
東足代岸田堂線、北八尾街道より分岐して北進し、東足代の筋違橋より中高野街道に達する町道にて大正四年四月幅員十尺を有する道路に改修されたので、従前は屈曲狭小な野道に過ぎなかった。延長四百三十八間九尺。
以上は主要道路の列挙に過ぎないが、尚ほかに東西に通ずる路線には一条通りより四条通り迄あり。一本木通り又東西に走り、南北線には広小路通り日の本通等名高く、向後耕地整理の竣るに及んでは坦々たる町道網を現出する日は目睫の間である。然かも各道路の要所には大軌鉄道踏切九ヶ所を敷へ橋梁又多く、菱屋橋、聖源寺橋、筋違橋、一条橋等名高い。
起点・終点はJR&南海三国ヶ丘駅。往路はまず西高野街道(地図の薄緑線)を南に進み、府道34号線を過ぎたあたりで天野街道(緑線)を走って金剛寺へ向かいます。復路(水色線)は途中まで天野街道を通り、その後泉北ニュータウンの遊歩道を走って土塔を見学し三国ヶ丘まで。 全行程約40km、往路は緩い上り基調、復路はほぼ下り基調で激坂もなく比較的走りやすいルートになっています。
Ride with GPS のルートを貼っておきます。実走されるときにご活用ください。
この日、ご一緒したのはオリーブさん。なんと新興折り畳み自転車メーカーの ANIWOW AW16 で登場!
私のブロンプトン(奥のやつ)と並べてみました。
このあとAW16に試乗させてもらいましたが、わりとかっちりして剛性も高そうだし素性の良さそうな自転車という印象です。
御廟表塚古墳。街なかに突然こんな古墳に出くわすあたり、さすが世界遺産百舌鳥・古市古墳群だけのことはありますね。
このあとダラダラと西高野街道の緩い上り坂を漕いでいくのですが、旧街道なので古民家なども多くていい雰囲気。写真を撮らなかったのが残念。
このあたりは農村だからか間口の広い古民家が多い印象でしたが、何か特徴でもあるのか後で調べてみよう。
西高野街道をさらに進み府道34号線に出ます。この交差点にコンビニがありますが、天野街道に入ると補給ポイントが無いのでここで調達しておきましょう。このコンビニで弁当買おうと思ってたのですが最近の物価高もあって買う気になれず、下調べしていた近くのうどん屋さんで早めの昼食をとりました。
行った店は「土佐うどん」、到着してみたら入口が閉まってる! と、よくみたら11:30開店で3分前でした。で、待つこと3分で開店。一番乗りで店に入りました。
注文したのは「かつおたたき定食」だったかな。店名が土佐だけにやっぱこれでしょう。ボリュームもあって美味しかった。この店、開店後すぐに続々とお客さんが来てすぐにほぼ満席になって、結構な人気店なようです。
府道を過ぎると西高野街道との分岐点があり、いよいよあまの街道へ。
あまの街道はずっとこんな感じの土の道ですが、しっかり踏み固められているので自転車でも問題なく走れます。
一見すごい山奥のようにみえるけど、木々の向こうにはほんの近くまで住宅街が広がっています。
レンゲが綺麗だったので撮影、自転車のおすわり姿がいいですね。
緩いながらもほぼずっと上り坂で、ちょっと疲れ気味ですが金剛寺に到着。ここは桜も有名だけどこの日は八重桜が満開でした。
金剛寺は元は奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が創建し、のちに弘法大師により密教寺院となり女人高野としても知られる古刹。南北朝時代には南朝の拠点となり一時は南朝・北朝双方の行在所となったとか。南北朝時代の事は勉強不足なので別の機会に調べてみようと思います。
お寺の境内には小川(天野川)が流れていて、これがまた風情があります。桜のほかもみじもあるので紅葉の季節も良いと思う。
参拝客はそれほど多くなく、のんびり散策できました。この日(4月18日)は同じ河内長野の観心寺で秘仏如意輪観音の公開日でもありました。観心寺の如意輪観音はトレカでいうSSR級の超人気仏像で、しかも週末と合わさったので全国から凄い数の参拝客が観光バスで来ていた筈なんですが、その人たちがついでに金剛寺にも来てごった返してないか心配だったけど杞憂でした。
国宝 金堂三尊像は撮影禁止だったのでパンフレットから画像引用します。大日如来は平安時代作とありますが、装飾品などもよく残っていて保存状態もよく、脇侍の不動明王・降三世明王は鎌倉時代の慶派の仏師行快作とされていますが、荘厳さよりもちょっと可愛らしい感じがしていいですね。
枯山水の庭園が思わず感嘆してしまうほど見事でした。
金剛寺は風情があって国宝・重文の仏像や建物も複数あり、南北朝時代などの歴史的経緯もあり、しかも仏像公開日にもかかわらず参拝客はそれほど多くない。これだけのロケーションのお寺がもし京都にあったらと思うと、隠れた名所・穴場スポットです。
帰りは同じ道を通るのは芸がないので泉北ニュータウン方面を走る事にしました。ニュータウンは歩車分離を目的に遊歩道を設けている事がよくありますが、自転車通行禁止の歩行者専用道な場合もあって不憫な思いをする事もあります。けど泉北ニュータウンの遊歩道は自転車通行可で車道とは立体交差になっているので快適に走れます。
ニュータウンを抜けて土塔へ。
「土塔」(どとう)は、奈良時代に僧行基らによって土と瓦で築かれた十三重の塔です。類例は奈良市の頭塔(ずとう)があります。
出典:「土塔 - 堺市」より
仏塔は仏舎利(お釈迦様のお骨)を納める場所、という意味ではお墓の一種とも言えるので、これはまさに日本のピラミッドですね。
写真はニンザイ古墳。
土塔までは順調に走れたけど、復路は一度も走った事が無いルートで、しかも数年前に作成したものなのでなぜこの道を選択したかという意図を覚えてないのもあってミスコースを連発してしまいました。その反省もあって復路のルートを少しシンプルに変更してみました。
それ以外はわりと走りやすく面白いルートなので定番コースにしたいなぁ。
大阪の自転車乗り、あるいは酷道(酷い国道)マニアにはよく知られた暗峠がある暗越奈良街道、江戸時代にはお伊勢参りの道としても賑わいましたが、その成立時期は南北朝時代にさかのぼるといわれています。
昭和の初めごろまではこの暗越奈良街道は周囲より一段高い土手道でした。最初から土手道だったわけではなく『高井田誌』によれば元禄十二年(1699)に高井田村の領主戸田山城守が、雨が降ると冠水する奈良街道の築堤を命じたのが始まりとされています。大和川付替え工事が宝永元年(1704)なのでそれより前のまだ洪水の絶えなかった時期ですね。布施井路が高井田村浸水の原因と考え、奈良街道との交差点にあった布施井路の樋を閉鎖、街道の南側を掘り下げてその土で奈良街道を築堤し、出来た溝を平野川につなげて排水路としました。剣堤より東側は街道の南側に五つの池を掘りその土で盛土をしました。
『東成郡誌、大正11年』に暗越奈良街道をこのように書かれています。
本街道は元来水害防禦の為築造せられたる五千石堤防の一部なるが故に、路線両側一帯の地盤よりも高きこと約一間乃至二間敷四間あり。荷馬車の往来頻繁なるが為、路面は凹凸甚だしく、雨天に泥濘晴天には砂塵飛散す。
ちなみにそれと交差する中高野街道(剣堤)については、
本街道前者と同じく堤防なるが故に、敷一間二尺、高大約一二間あり。交通比較的繁ならず。路面高低少なく、常に修補維持せらる。
とあり、やはり堤防としての役目をしていたと伺われます。暗越奈良街道と比べて剣堤は往来が少なかったようです。
剣峠の西の奈良街道沿いに排水路があったとされますが、これを文献で探しました。東大阪市の前身のひとつ旧布施長町編集の『布施町誌』(昭和4)に以下のような記述があります。
悪水抜井路敷設は元禄十二年の堤奉行辻源五左衛門、萬年長十郎両氏の赦免にて設けられたのである。この井路は元来長堂に入る十三街道に沿ふ東側の布施井路が北へ西高井田、深江方面に抜けてゐたのを、東足代新家の南入口にて西折せしめ、大今里の本庄川に注ぐ、奈良街道南側に沿ふ井路である。
ブランドーリふせの旧暗越奈良街道交差付近。交差部分の土地が高く土手の名残を確認できます。
大正時代の地図から、平野川に至る水路はひとつ南側の足代北公園前の道あたりを流れていたと思われます。公園北西角から撮影、右奥が暗越奈良街道で、左手の水路跡と思われる道が低くなっています。
地図では水路はこの先で一旦北に折れて街道に沿って流れていたようです。
旧暗越奈良街道と産業道路が分岐する場所。明らかに撮影地点(旧街道)のほうが土地が高くなっています。元々土手道だったのを産業道路建設時に掘り下げたようです。
昔、今里西之口公園付近は平野川につづく大きな水路のたまり場になっていて、平野川を行き来する柏原船が方向転換したところです。
公園に近付くと水路跡らしき部分の段差がはっきりした場所があります。
今回は布施井路の南側が切り離されて平野川へ付け替えられた痕跡を辿ってみました。暗越奈良街道の土手道と土手の土を確保するために掘り下げられた水路。その名残は今も街のあちこちに残されていました。
千間川は「千間井路(せんげんいじ)」とも呼ばれる人工の水路でした。現在の東大阪市高井田の馬の頭(うまのかしら)樋門から城東区と東成区の境界を通り平野川まで続いていました。その長さが千間(約1.8km)あったことが名前の由来です。その後、水質の悪化などにより昭和40年代に埋め立てられ、現在は跡地の一部が公園や緑道として整備されています。
千間井路が高井田地域の排水路だとしたら、その起点はどのようになっていたかを「今昔マップ 明治41年(1908)測図」の地図で見てみます。
正徳二年[1712]高井田村庄屋森河内庄屋、其他年寄数人の盡力により樋の伏せ替、井路浚渫工事を行ふ、総て百姓普請にして坪数二千六十坪、人足四萬七千二百六十八人を要せしと伝ふ。
出典:中河内郡誌 1923