輪行ぶらり旅

自転車抱えて旅に出よう

2026GWの旅1 桶狭間の戦い

前日思い立ち、雨上がりの桶狭間へ

出発まで

 2026年のGWは全般的に天候が優れず、連続して雨が降らなさそうなのは5月4~6の3日間だけ。けどせっかくの連休を家で過ごすのはもったいないので3日で行って帰ってこれるネタを…、と思い立ったのは前日。そそくさと荷物をまとめてルートをgarminに入れて、と急いで準備し翌日の出発に備えました。
 
 当日、いつもなら前日の夜のうちに自転車を準備してマンション下にこっそり駐輪しておくのですが、あいにくの雨のため当日朝にマンションの自室から外に出して荷物をパッキングして…、と結構手間がかかる。そして駅まで走って荷物を下ろして分解して輪行袋につめて…、とかやってたら余裕をもって家を出たつもりだったのに乗車予定時刻ギリギリになってしまった。
 
 近鉄特急はすべて満席だったので近鉄の急行と名鉄を乗り継いで本笠寺駅で降りました。今回の相棒はリカンベントcobra、折り畳みできるので輪行には便利。
折り畳みリカンベント本笠寺駅にて

今回のテーマ

 Youtube「よしふじ戦国チャンネル」がわかりやすかったので走った後ですがブログ作成の参考にさせていただきました。ということでご本人には無断で動画貼り付け。
と、マップ。uMapに国土地理院 陰影起伏図を重ねてみました。上記動画と合わせて地形などをみると参考になると思います。マップの緑色の線は旧東海道(といっても江戸時代以降に成立)、茶色の線は今回の自転車旅での走行予定ルートです。

信長が見た地形を自転車で

鳴海城包囲戦

離反と謀略、そして包囲へ
 天文二十年(1551)織田信秀の死後、嫡男である信長と弟信行との家督争いが起き、その際に鳴海城主山口教継が織田から離反し、鳴海城、大高城、沓掛城が今川の手に渡ってしまいました。桶狭間の合戦直前の永禄二~三年(1559-60)ごろ、家督を継ぎ織田家を安定させた信長は謀略を用いて山口教継・教吉親子を今川義元の疑心を誘い粛清に成功。さらに丹下砦、善照寺砦、中島砦の3つの砦を築いて鳴海城を包囲しました。
地形図で読み解く三砦の配置と役割
 鳴海城と3つの砦の位置関係を先述の地形図で確認します。
地図上の西側の平地は当時は海または砂洲の広がる氾濫原だったようなので、3つの砦は北、東、南を抑えて城を包囲してるのがわかります。特に中島砦は他と比べると低地なため防御力は低そうですが大高城や三河方面への連絡路を遮断する鳴海城包囲での最大の要所だったと思われます。
現地の様子
 まずは旧東海道に出て笠寺(笠覆寺)へ。名古屋方面から進むと真正面に門が見えます。台地の縁に建っているようで奥にいくと周囲より高い位置にあるのがわかります。
笠寺 笠寺の裏手
 東海道は寺の脇を通りますが、台地を下る坂道になっています。伽藍配置からいってこっちが正面ですね。
笠寺2
 つぎに丹下砦跡へ。先述の地形図でみると旧東海道は台地の裾を通っていて、そこから脇道を上りますが結構な急坂でした。丹下砦跡の碑文の場所、思いっきり他人家です。
丹下砦への道 丹下砦跡碑
 鳴海城跡。
鳴海城跡
 善照寺砦跡。しかしあらためてみるとろくな写真撮れてないなぁ。その理由のひとつはリカンベントで走ったから。リカンベントは走り出しが不安定なのでストップ&ゴーが多いポタリングには非常に不向きな自転車なもので、立ち止まるのが億劫でついつい撮影がおろそかになってしまっていました。もうひとつは午後からのスタートだったので、明るいうちに走り終えたくて先を急いでしまったこと。
善照寺砦跡 善照寺砦跡
 中島砦跡。
中島砦跡
ほんとなら周囲の川の写真なども撮影して地形の解説したいところですが、大阪からはそこそこ遠いので撮影のために再訪問もなかなかできそうにないなぁ。

大高城

前夜の兵糧入れ、そして未明の総攻撃
 山口教継の寝返りで今川方に落ちた大高城もまた、織田信長が丸根砦・鷲津砦などを築き大高城を包囲、孤立させることにほぼ成功しました。今川義元が桶狭間へ攻め入ったのはこの大高城を救援することが目的だったともいわれます。
 永禄三年(1560)五月十八日、今川方の大高城へ松平元康(後の徳川家康)が今川義元の命をうけて援軍を兼ねて兵糧入れを敢行し、翌十九日未明に松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦をそれぞれ攻撃し陥落させました。
籠城するか、討って出るか
 まずは鷲津砦へ。あらかじめルート作成していたから判ってたことではありますが、けっこうな激坂です。舗装がアスファルトじゃなくコンクリートになっている事からも激坂なのがわかりますよね。リカンベントは上り坂が苦手なので押し歩きしました。
鷲津砦へ 鷲津砦公園
 鷲津砦公園で記念撮影。鷲津砦の正確な位置は判明していないそうですがこの公園の奥あたりだったらしい。
鷲津砦からの下り道
 公園前から見たこれから下る道。てゆうか今居る場所も下り坂なんですよ。そこから先が見えないほど急に下ってるってどんだけ急坂やねん!
 こんな激坂の上に砦をつくって籠ってたらイザというとき討って出るのも大変じゃないかと思いました。実際の戦いでも最後まで籠城して戦ったそうです。
 つづいて大高城跡。鷲津砦とは窪地(当時は湿地帯だったかも)を挟んだ西側にあります。細い路地を通って行きましたが、城跡の高台は意外と広くて見晴らしもよく、それなりの規模の城だったことを偲ばせます。
大高城 大高城から望む
 そして丸根砦。頂上付近は小高い山になっていますが、裾野は自転車でも走れる程度の坂でした。
丸根砦跡のある小山 丸根砦跡
 丸根砦では松平元康から攻撃をうけたとき、城から討って出て勝負したそうです。あくまで籠城を貫いた鷲津砦と野戦を仕掛けた丸根砦、それは両砦の地形の違いによる判断だったのかもしれませんね。

桶狭間

今川義元の誤算
 今川義元は織田軍に包囲された大高城・鳴海城の救援のため二万五千人もの大軍を率いて進軍し、五月十七日に前線基地となる沓掛城に入城。先に瀬名氏俊に偵察を命じ「おけはざま山」に本陣の陣所設営を行わせ、松平元康に大高城への兵糧入れを行わせました。五月十八日に大高城への兵糧入れ成功の報告を受け、翌十九日、大高城に入城した松平元康らに鷲津砦・丸根砦を攻撃させ、自らも沓掛城を出陣し「おけはざま山」へと駒を進めました。午前中には大高城を囲う両砦が陥落、今川義元の本隊も敵からの反撃もなく昼頃には「おけはざま山」に着陣。前衛部隊を進軍させ義元本隊は「おけはざま山」に腰を据えました。
 一方、織田信長は鷲津砦・丸根砦攻撃の報を受けて出陣し善照寺砦に二千の兵を集結させました。織田軍前衛が中島砦を目指して進軍する今川軍前衛と衝突し戦闘に入ると信長は危険を顧みず中島砦へ移動、さらに釜ケ谷まで進軍し、今川義元本隊の動向を探りました。
 これは私の推測ですが、今川軍は前もって「おけはざま山」に本陣の設営準備をしていました。おそらくその情報を信長方が察知していたため、義元は必ず「おけはざま山」に着陣すると分かっていたことでしょう。そして当日の昼過ぎ、間者から義元着陣の報せを受けて進撃したと思われます。さらに今川軍はここまであまりにも順調に進軍したため予定より早く着陣していたと思われます。本来なら敵の反攻も考慮して夕刻に着陣、前衛を呼び戻して野営し翌朝に総攻撃を仕掛けるつもりだったのではないでしょうか。
 信長は今川義元本陣へ突撃、今川軍はここまで敵の反攻がないため織田軍はまだ後方にいると判断したのでしょう、前衛を進軍させすぎて本陣の守りが手薄になっていました。ふいを突かれた今川軍本隊は大混乱に陥り義元は討ち取られました。
狙うは義元の首ただひとつ
 大高城エリアから桶狭間古戦場エリアまではほぼ大高道をトレースしました。細くてクネクネとしたいかにも昔ながらの道という感じ。しかしろくな写真撮ってないなぁ。
大高道
 桶狭間古戦場エリアでまず見つけたのが「戦評の松」、今川軍斥候の瀬名氏俊がここで戦評定をしたとされます。
 
DSCN3701.jpg DSCN3711.jpg
このすぐ近くにある「桶狭間古戦場観光案内所」でビデオを観た後「井伊直盛陣地跡(伝)」の看板へ、google mapではもっと離れた場所だった筈なんだけど、小学校の門に移設されたようです。まあ(伝)ですからもともといい加減なものなのかもね。
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七ツ塚。桶狭間での戦死者を埋葬した塚だそうです。ここから釜ヶ谷へ向かうとき高架下をくぐります。さて何の高架でしょうか、後でこの上に行くので正解は後ほど。
DSCN3721.jpg
 釜ヶ谷。信長が今川本陣への突撃の機をうかがった所とされています。先述のとおり今川本陣が「おけはざま山」に着陣する事は事前に分かっていたと思われ、あとは義元がそこに居るかどうかをここで探っていたのでしょう。
DSCN3722.jpg
 この奥に見える桜花学園大学の敷地内にブラタモリでも紹介された「信長坂(しんちょうざか)」と呼ばれる階段道があるそうですが、そこを通らずとも先ほどの高架に上がれば坂の上に行けるんですよね。
DSCN3729.jpg DSCN3733.jpg
ということで高架の上に移動。なんとここは愛知用水の水路でした。水路の下を道が通っていたんですね。釜ヶ谷を見下ろすことができます。
桶狭間古戦場 伝説地
つづきましては田楽狭間の「桶狭間古戦場 伝説地」。現在では今川義元本隊は「おけはざま山」だったというのが定説で本記事でもそちらを採用していますが、それはそれとしてこっちも見学して楽しみましょう。
今川義元本陣跡
こちらが「おけはざま山」本陣跡。桶狭間の戦いでは信長が突撃する少し前に石水混じりの大雨が降ったそうで、碑文には今川軍の兵が落雷を避けるため槍を手から離していたため織田軍の攻撃に対処できなかったようなことが書かれてます。
 本陣跡を下ってすぐにある「桶狭間古戦場公園」の織田信長像と今川義元像。
桶狭間古戦場公園 瀬名陣所跡付近
この公園のすぐ近く、ため池のほとりに瀬名陣所跡があります。

夢のあと

 最後に今川義元が出撃した沓掛城跡へ向かいました。土塁や空堀などが残っていて見どころいっぱいありそう。けど日が暮れるまでに知立まで走る予定だったのでじっくり見ることはできなかったのが悔やまれます。

沓掛城 沓掛城
 大阪からの移動に時間がかかり午後から走り始めたので駆け足になってしまいましたが、事前にルート等を調べていたのでわりとスムーズに桶狭間関連の史跡をまわることができました。いつか、もっと時間をかけて旧東海道や鎌倉道も絡めてこの地域を訪れたいなぁ。
 

参考文献など

国土地理院 陰影起伏図 / uMap

固形カレールウの元祖 ベル食品

レトルトカレーの自動販売機

 大阪市鶴見区にあるベル食品工業の工場裏手に同社のレトルトカレーの自販機があります。この場所はちょうど剣堤沿いでもあり、東大阪市立図書館へ借りていた本を返しに行くついでに寄ってみました。
 

古堤街道から三郷井路

古堤街道

 スタートは中之島から、バラが満開で大勢の人が居たので自転車押し歩きました。
中之島バラ園
 大川沿いのサイクリングロードを走って川崎橋からは京阪線沿いを走ります。コーナンとジャパンのある信号で京阪線の南側に出るとこんな石碑が。
のだはし跡碑
のだはし跡碑。かつてここを流れていた鯰江川に架かっていた、京街道が通る重要な橋でした。
野田橋跡付近写真で中央の木々が茂る所が「のだはし跡」碑のある場所。よく見ると左側の道がこの先で低くなっているように見えますが、実際は現在地と右側の道が旧鯰江川の堤防で周囲より土地が高くなっています。
 現在の京橋駅付近で京街道が北に別れ、鯰江川の北岸堤防上の道は大和街道、大和道などと呼ばれていましたが、明治になって古堤街道と命名されました。
 その辺のことは以前のブログ記事「のざきまいり 旧寝屋川堤防」にも書いてるのでそちらもご参照ください。
三郷橋稲荷大神付近
 土地の高い場所を辿りながら進むと右にカーブして三郷橋稲荷大神の祠があります。古堤街道はこのまま進みますが、今回はここを左に折れて2つ目を右に進みます。
三郷橋から先は三郷井路跡沿いを走る

三郷井路

 三郷橋稲荷大神付近を国土地理院の陰影起伏図で表示してみます。
中心の十字のある地点が三郷橋稲荷大神の位置、西側に伸びる微高地がここまで走ってきた旧鯰江川の堤防跡で、そのすぐ南側の道路が埋め立てられた川筋になります。三郷橋稲荷から東側は並行して3本の道がありますが、『鶴見区昔ばなし』によると3つそれぞれが水路跡のようで、北から「榎並溝」「五ヶ井路」「門真悪水井路」と呼ばれていたようで、それらがこの三郷橋付近で合流して下流側を鯰江川と呼んでいました。今回は3本あるうちの北側の道を東へ進みます。
三郷井路跡沿いの道
今福中橋より、北側の道はクルマは一方通行だけど道幅もそこそこあり自転車で走りやすいく、自転車の往来も多いようです。真ん中の道は中央線のある道ですが双方向からクルマが来るのでやや走りにくい。
榎並溝起点
 北側の道はここで終了。古い地図をみると千林方面からの水路がここで西に折れて「榎並溝」になっていたようです。
門真井路
北側の道がなくなったので一番南側の道に移動。ここはクルマ一台がやっと通れるぐらいの狭い路地です。「門真悪水井路」は川幅が三間あったようなのでこの道幅は明らかに狭い。たぶんこの道は水路南側に沿って伸びていたのではないかと思います。
剣街道
路地を東へ進むと道幅が広くなって右にカーブした道になります。このカーブした道が剣堤になります。
 そしてレトルトカレー自販機に到着。自販機はベル食品の工場裏手にあります。
レトルトカレー自販機レトルトカレー自販機
 

ベル食品とベルカレールウ

ベル食品発祥の地は東京だった

 スーパーの棚に並ぶ固形カレールウ。板チョコのように割って使うあのスタイルは、ベル食品が生み出したものです。固形タイプのルウ自体は以前から存在していましたが、「必要な分だけ割って使える」形にしたのはベルが初めてであり、現在主流となっている固形ルウの元祖といえます。
 そのベル食品、現在は大阪市鶴見区に本社を置きますが、実は東京生まれの会社です。前身はベル製菓という洋菓子メーカーで、戦後の混乱期に業態を転換し、銀座から新宿へ移転。「平和の鐘」にちなんだ社名を冠した固形カレールウを昭和25年(1950年)に売り出しました。当時の即席カレーといえば粉末が主流だったなかで、練り板状という新形態は業界に新風を吹き込みました。宣伝もデパートでの実演販売という積極策をとり、着実に知名度を広げていきました。
競合として立ちはだかったのが、戦前からの老舗・ノーブル商会の「スヰートカレー」でした。しかし結果は戦後派のベルが戦前派のスヰートを引き離す形となり、固形ルウという新分野を切り開いたことが、その大きな勝因となりました。

新生「ベル食品工業(株)」へ

 順風満帆に見えたベルでしたが、その後は波乱の道をたどります。
 
1962年 大阪・高槻市に工場を建設し、関西へ進出
1966年 会社更生法を申請、経営危機に陥る
1969年 大阪の植田製油と三菱商事のバックアップを得て、ベル食品工業(株)として再出発(城東区)
1971年 現在地の鶴見区へ移転
 
 大手メーカーの台頭により苦境に立たされた末の会社更生法申請でしたが、植田製油と三菱商事のバックアップを得て新たにベル食品工業(株)が設立され、その製造技術とブランドを受け継いだ後継企業として、今日に至っています。
 再建期の1969年から71年にかけて、同じくカレー販売を手がけるメタル食品(株)と住所・電話番号が同一になっている記録が残っています。おそらく再建中にメタル食品のオフィスに間借りしていたのではないかと推測されますが、詳細は不明です。

ベル食品正門へ

 レトルトカレーを購入後、工場の正門側に行ってみました。

ベル食品玄関
 本社ビル?には誇らしげに「ベル食品」のロゴが。
門左側の社名「植田製油(株)」門右側の社名「ベル食品工業(株)」
正門の左側は「植田製油(株)」右側は「ベル食品工業(株)」とあり、新生ベル食品工業が植田製油の傘下だとわかります。

参考文献

『大阪の街道』神野清秀,1989.9. 
『鶴見区昔ばなし』赤坂敏行,1984.6.
『食糧年鑑』昭和30年版 〔本文編〕,日本食糧新聞社,1955.
『食糧経済年鑑』昭和43年度,食糧経済新聞社,1967. 
『中小企業信用保険公庫月報』10(2),中小企業総合研究機構,1967-02. 
『全国食品業者名鑑』1975 東日本編.東京・製造,食品新聞社出版部,1975.
『食品工業総合名鑑』1972,光琳書院,1971. 

一条橋と筋違橋

ふたつの橋の親柱

「一条橋」親柱

 布施一条通商店会の西の端、フラワーロードほんまち入口付近に「いちでうはし」と書かれた橋の親柱があります。場所は回転寿司発祥の店「元禄寿司」の目の前。『東大阪市の石造物1』によると、刻まれた4人の名前等から推察して明治時代のものとされています。橋の親柱があるということはこの付近に水路があったはずですが辺りには痕跡は見当たりません。
一条橋の場所一条橋親柱2
一条橋親柱1

「筋違橋」親柱

 『東大阪市の石造物1』には一条橋親柱から南方約400mの地蔵堂横に「すじかひはし」の親柱が残されていると書かれています。現地へ行ってみると三叉路の分かれ目に地蔵堂は無くなっていて後ろの建物の壁に地蔵堂の屋根の跡がついている小さな空地に親柱が置いてありました。ご近所の方にお話しを伺ったところ、地蔵堂はお世話をするひとが居なくなったので取り壊されたそうで、水路については分からないとの事でした。
筋違橋の場所
筋違橋親柱

地図から読み解く

橋の位置関係

 このふたつの橋はちょうど剣堤の延長線上にあり、もしかしたら布施井路の南側部分の名残ではないかと思い調べてみることに。
 
『布勢町誌』の俊徳街道の段にこのような記述がありました。
 東足代岸田堂線、北八尾街道より分岐して北進し、東足代の筋違橋より中高野街道に達する町道にて大正四年四月幅員十尺を有する道路に改修されたので、従前は屈曲狭小な野道に過ぎなかった。延長四百三十八間九尺。
 以上は主要道路の列挙に過ぎないが、尚ほかに東西に通ずる路線には一条通りより四条通り迄あり。一本木通り又東西に走り、南北線には広小路通り日の本通等名高く、向後耕地整理の竣るに及んでは坦々たる町道網を現出する日は目睫の間である。然かも各道路の要所には大軌鉄道踏切九ヶ所を敷へ橋梁又多く、菱屋橋、聖源寺橋、筋違橋、一条橋等名高い。
 
『布施町誌』,布施町,昭和4. p.409より
 
 この中に「菱屋橋」「聖源寺橋」「筋違橋」「一条橋」の4つの橋の名前が出てきます。このうち「菱屋橋」は俊徳街道と十三街道が合流する要所ではあるけど場所も離れているので除き、残りの3つの橋と東足代岸田堂線や一条通~四条通の位置関係を昔の地図に描き込んでみます。
 
布施町全地図より作成

聖源寺橋

 聖源寺は天正五年(1577)の「高井田の戦い」で戦死した小寺高仲らを弔うため天正十三年(1585)に創建され、明治五年(1872)に廃寺になりましたが、その後もその地は聖源寺址と称されていました。場所は東足代北の町明専寺北隣にあったということなので地図上に示しました。これをみると、聖源寺橋は中高野街道と十三街道の分岐点に架かっていたと考えられます。

一条橋

 近鉄の前身の大阪電気軌道(大軌)が上本町ー奈良間の路線を開通させた大正三年(1914)当初、布施駅は現在の位置より200m西の中高野街道の西側にあり、名前も深江駅でした。一条通~四条通は駅前が市街地化するなかでつくられた道と思われ、地図の位置からみて、十三街道から踏切を渡らずに深江駅へ向かうルートだったようで、一条橋は一条通と中高野街道を繋ぐ橋だったと思われます。親柱が明治時代のものと先述しましたが、大正三年に路線の開通後に街が発展整備されるまで一条通は存在しなかった筈なので、おそらく大正時代初期に架けられたものと推察されます。

筋違橋

 筋違橋があったとされる東足代岸田堂線は、北八尾街道と中高野街道を最短距離で結ぶ斜めの道でした。南北に流れる水路を斜めに横切る橋だったため筋違橋と名付けられたようです。
 

布施井路の痕跡

 布施井路は剣堤(中高野街道)の東側に沿って掘られた水路だということは以前の記事に書きました。井路の南側はどこまで繋がっていたのか、1931年の『布施町全地図』には水路も描かれていてるのですが(書き込みしたので見えないかも)、十三街道の分岐位置から筋違橋までの間は水路が無くなっています。
 今昔マップの大正十年(1921)の地図をみると、不鮮明ながら中高野街道の東側に水路らしき線が描かれてますね。
 
 ただこの地図だと一条通は途中までしかなく二条通のほうが十三街道に繋がっていていますね。やや腑に落ちないけど現時点ではこれ以上の事はわかりません。
 

参考文献

  • 『東大阪市の石造物1』東大阪市教育委員会 1995.3
  • 『布施町誌』布施町 1929
  • 『布施町全地図』 大時舎新聞舗 1931.11
  • 今昔マップ

あまの街道

天野山金剛寺

あまの街道 金剛寺への参道

 天野街道は、西高野街道から分岐して女人高野として知られる天野山金剛寺へと続く参道です。陶器山の尾根づたいを通り大部分が未舗装の山道ですが、勾配もきつくなく路面も踏み固められているので自転車でも走りやすい格好のポタリングルートでもあります。
 この日はちょうど金剛寺で「国宝 金堂三尊」の特別公開があり、自転車仲間と二人で金剛寺を目指して走ることにしました。

ルート

 今回のルートはこんな感じ。(当日ライドの後半がグダグダだったのでちょっと修正しています。)

フルスクリーン表示

 起点・終点はJR&南海三国ヶ丘駅。往路はまず西高野街道(地図の薄緑線)を南に進み、府道34号線を過ぎたあたりで天野街道(緑線)を走って金剛寺へ向かいます。復路(水色線)は途中まで天野街道を通り、その後泉北ニュータウンの遊歩道を走って土塔を見学し三国ヶ丘まで。 全行程約40km、往路は緩い上り基調、復路はほぼ下り基調で激坂もなく比較的走りやすいルートになっています。

 Ride with GPS のルートを貼っておきます。実走されるときにご活用ください。

Ride with GPS 天野街道

Ride with GPS 金剛寺から

ライド当日

往路

西高野街道

 この日、ご一緒したのはオリーブさん。なんと新興折り畳み自転車メーカーの ANIWOW AW16 で登場!

三国ヶ丘駅前にて、折り畳み自転車揃い踏み

私のブロンプトン(奥のやつ)と並べてみました。

 このあとAW16に試乗させてもらいましたが、わりとかっちりして剛性も高そうだし素性の良さそうな自転車という印象です。

御廟表塚古墳

 御廟表塚古墳。街なかに突然こんな古墳に出くわすあたり、さすが世界遺産百舌鳥・古市古墳群だけのことはありますね。

 このあとダラダラと西高野街道の緩い上り坂を漕いでいくのですが、旧街道なので古民家なども多くていい雰囲気。写真を撮らなかったのが残念。

西高野街道

 このあたりは農村だからか間口の広い古民家が多い印象でしたが、何か特徴でもあるのか後で調べてみよう。

補給&昼食

 西高野街道をさらに進み府道34号線に出ます。この交差点にコンビニがありますが、天野街道に入ると補給ポイントが無いのでここで調達しておきましょう。このコンビニで弁当買おうと思ってたのですが最近の物価高もあって買う気になれず、下調べしていた近くのうどん屋さんで早めの昼食をとりました。

 行った店は「土佐うどん」、到着してみたら入口が閉まってる! と、よくみたら11:30開店で3分前でした。で、待つこと3分で開店。一番乗りで店に入りました。

かつおたたき定食

 注文したのは「かつおたたき定食」だったかな。店名が土佐だけにやっぱこれでしょう。ボリュームもあって美味しかった。この店、開店後すぐに続々とお客さんが来てすぐにほぼ満席になって、結構な人気店なようです。

あまの街道

 府道を過ぎると西高野街道との分岐点があり、いよいよあまの街道へ。

あまの街道入口

 あまの街道はずっとこんな感じの土の道ですが、しっかり踏み固められているので自転車でも問題なく走れます。

あまの街道1

一見すごい山奥のようにみえるけど、木々の向こうにはほんの近くまで住宅街が広がっています。

あまの街道2DSCN3404.jpg

レンゲが綺麗だったので撮影、自転車のおすわり姿がいいですね。

金剛寺

金剛寺境内

 緩いながらもほぼずっと上り坂で、ちょっと疲れ気味ですが金剛寺に到着。ここは桜も有名だけどこの日は八重桜が満開でした。

金剛寺1

 金剛寺は元は奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が創建し、のちに弘法大師により密教寺院となり女人高野としても知られる古刹。南北朝時代には南朝の拠点となり一時は南朝・北朝双方の行在所となったとか。南北朝時代の事は勉強不足なので別の機会に調べてみようと思います。

金剛寺2

 お寺の境内には小川(天野川)が流れていて、これがまた風情があります。桜のほかもみじもあるので紅葉の季節も良いと思う。

金剛寺4

 参拝客はそれほど多くなく、のんびり散策できました。この日(4月18日)は同じ河内長野の観心寺で秘仏如意輪観音の公開日でもありました。観心寺の如意輪観音はトレカでいうSSR級の超人気仏像で、しかも週末と合わさったので全国から凄い数の参拝客が観光バスで来ていた筈なんですが、その人たちがついでに金剛寺にも来てごった返してないか心配だったけど杞憂でした。

国宝 金堂三尊像

天野山金剛寺伽藍パンフレットより金堂三尊像

 国宝 金堂三尊像は撮影禁止だったのでパンフレットから画像引用します。大日如来は平安時代作とありますが、装飾品などもよく残っていて保存状態もよく、脇侍の不動明王・降三世明王は鎌倉時代の慶派の仏師行快作とされていますが、荘厳さよりもちょっと可愛らしい感じがしていいですね。

庭園

金剛寺5

 枯山水の庭園が思わず感嘆してしまうほど見事でした。

 金剛寺は風情があって国宝・重文の仏像や建物も複数あり、南北朝時代などの歴史的経緯もあり、しかも仏像公開日にもかかわらず参拝客はそれほど多くない。これだけのロケーションのお寺がもし京都にあったらと思うと、隠れた名所・穴場スポットです。

復路 泉北ニュータウン~土塔

泉北ニュータウン

 帰りは同じ道を通るのは芸がないので泉北ニュータウン方面を走る事にしました。ニュータウンは歩車分離を目的に遊歩道を設けている事がよくありますが、自転車通行禁止の歩行者専用道な場合もあって不憫な思いをする事もあります。けど泉北ニュータウンの遊歩道は自転車通行可で車道とは立体交差になっているので快適に走れます。

泉北ニュータウン

土塔

 ニュータウンを抜けて土塔へ。

「土塔」(どとう)は、奈良時代に僧行基らによって土と瓦で築かれた十三重の塔です。類例は奈良市の頭塔(ずとう)があります。

出典:「土塔 - 堺市」より

土塔

 仏塔は仏舎利(お釈迦様のお骨)を納める場所、という意味ではお墓の一種とも言えるので、これはまさに日本のピラミッドですね。

おわり 最後はグダグダに

ニンザイ古墳

写真はニンザイ古墳。
 土塔までは順調に走れたけど、復路は一度も走った事が無いルートで、しかも数年前に作成したものなのでなぜこの道を選択したかという意図を覚えてないのもあってミスコースを連発してしまいました。その反省もあって復路のルートを少しシンプルに変更してみました。

 それ以外はわりと走りやすく面白いルートなので定番コースにしたいなぁ。

布施井路の変遷

暗越奈良街道

奈良街道

 大阪の自転車乗り、あるいは酷道(酷い国道)マニアにはよく知られた暗峠がある暗越奈良街道、江戸時代にはお伊勢参りの道としても賑わいましたが、その成立時期は南北朝時代にさかのぼるといわれています。

街道の築堤と布施井路の締め切り

 昭和の初めごろまではこの暗越奈良街道は周囲より一段高い土手道でした。最初から土手道だったわけではなく『高井田誌』によれば元禄十二年(1699)に高井田村の領主戸田山城守が、雨が降ると冠水する奈良街道の築堤を命じたのが始まりとされています。大和川付替え工事が宝永元年(1704)なのでそれより前のまだ洪水の絶えなかった時期ですね。布施井路が高井田村浸水の原因と考え、奈良街道との交差点にあった布施井路の樋を閉鎖、街道の南側を掘り下げてその土で奈良街道を築堤し、出来た溝を平野川につなげて排水路としました。剣堤より東側は街道の南側に五つの池を掘りその土で盛土をしました。

 『東成郡誌、大正11年』に暗越奈良街道をこのように書かれています。

本街道は元来水害防禦の為築造せられたる五千石堤防の一部なるが故に、路線両側一帯の地盤よりも高きこと約一間乃至二間敷四間あり。荷馬車の往来頻繁なるが為、路面は凹凸甚だしく、雨天に泥濘晴天には砂塵飛散す。

 ちなみにそれと交差する中高野街道(剣堤)については、

本街道前者と同じく堤防なるが故に、敷一間二尺、高大約一二間あり。交通比較的繁ならず。路面高低少なく、常に修補維持せらる。

とあり、やはり堤防としての役目をしていたと伺われます。暗越奈良街道と比べて剣堤は往来が少なかったようです。

排水路の痕跡をさがす

文献から

 剣峠の西の奈良街道沿いに排水路があったとされますが、これを文献で探しました。東大阪市の前身のひとつ旧布施長町編集の『布施町誌』(昭和4)に以下のような記述があります。

 悪水抜井路敷設は元禄十二年の堤奉行辻源五左衛門、萬年長十郎両氏の赦免にて設けられたのである。この井路は元来長堂に入る十三街道に沿ふ東側の布施井路が北へ西高井田、深江方面に抜けてゐたのを、東足代新家の南入口にて西折せしめ、大今里の本庄川に注ぐ、奈良街道南側に沿ふ井路である。
問題はここにでてくる「本庄川」で、大阪にそのような名前の川を確認できません。『大阪の川 大阪市建設局』(2009.7)にある埋め立てられた河川リストの「神路川 深江町大今里付近~平野川」というのが該当する可能性があります。

地図で確認

国土地理院の明治18年測量図より
明治18年地図大今里深江
 国土地理院の明治18年測量図を見ると、暗越奈良街道(奈良道)の南側に街道と並行する細い線が描かれており、これが排水路と考えられます。深江村付近で剣堤と交差し、街道がクランク状に曲がる地点には、前回の記事「高井田の戦い」で触れた三角形の池らしき地形も確認できます。
 暗越奈良街道の西の方はを西に大今里村から本荘村あたりで蛇行しています。『布施町誌』に記述のあった「本庄川」の本庄はこの本荘村から転化した名称かもしれません(推測)。
布施町全図 1931 より
布施町全地図より
 この頃はまだ産業道路はなく、また暗越奈良街道と剣堤との交差部に三角の池そのものは描かれていませんが、当該地点だけ番地が記載されていないので、建築不可の土地=池跡であった可能性が高いと考えられます。
 注目は暗越奈良街道の南にある水路で、西側から辿ると最初は街道に沿っていた水路が一旦南に折れて一筋違いで東に延び、三角池の南側で東からと南からの水路が合流しています。おそらくこの南からの水路が布施井路の名残でしょう。

現在の地形

暗越奈良街道

 ブランドーリふせの旧暗越奈良街道交差付近。交差部分の土地が高く土手の名残を確認できます。

ブランドーリふせ暗越奈良街道交差点

 大正時代の地図から、平野川に至る水路はひとつ南側の足代北公園前の道あたりを流れていたと思われます。公園北西角から撮影、右奥が暗越奈良街道で、左手の水路跡と思われる道が低くなっています。

足代北公園付近より 

 地図では水路はこの先で一旦北に折れて街道に沿って流れていたようです。

暗越奈良街道 布施分岐

 旧暗越奈良街道と産業道路が分岐する場所。明らかに撮影地点(旧街道)のほうが土地が高くなっています。元々土手道だったのを産業道路建設時に掘り下げたようです。

大今里の水路跡

 google mapでみると、旧暗越奈良街道の南側に沿って細長い空き地が続いているのを確認できます。
 この場所に実際にいってみると周囲より一段低い土地が細長く続いています。
神路川跡?
 これがおそらく神路川跡で、布施井路の南側が暗越奈良街道の位置で樋を塞いで西に繋いだ水路だと思われます。このすぐ北側に暗越奈良街道の旧道が残されています。
暗越奈良街道大今里付近1暗越奈良街道大今里付近2
 この辺りでは暗越奈良街道は周囲よりも一段高い所にあったことが確認できます。
暗越奈良街道大今里付近3
水路跡付近から見た暗越奈良街道、熊野大神宮
 写真奥に見えるのは熊野大神宮という神社。ここにちょうど近所のご年配の方がいらしたので話を伺ってみましたところ、暗越奈良街道の南側に人口の水路あって川船が通れるぐらいの川幅だったそうです。この先(西)にある西之口公園は水路が広くなっていて細長い船が方向転換する場所になっていたと教えていただきました。
 実はこの話、『さがしてみようちょっと昔の東成』という小冊子に
 昔、今里西之口公園付近は平野川につづく大きな水路のたまり場になっていて、平野川を行き来する柏原船が方向転換したところです。
さがしてみようちょっと昔の東成より 北側から大軌を望む
と想像イラスト付きで載っています。思いがけず裏付けになるお話しを聞くことができました。

今里西之口公園

 公園に近付くと水路跡らしき部分の段差がはっきりした場所があります。

暗越奈良街道南側1暗越奈良街道南側2
 街道から見た西之口公園。やはり一段低いですね。
今里西之口公園
 

余談 謎の鳥像

 西之口公園の端っこにこんな怪しげな鳥の像が!
今里西之口公園謎の像
 これテレビか何かで観た覚えがあり、胸に大軌(大阪電気軌道、近鉄の前身)の社章が入っているとか。なぜここにこの像があるかはわからないようです。

おわり

 今回は布施井路の南側が切り離されて平野川へ付け替えられた痕跡を辿ってみました。暗越奈良街道の土手道と土手の土を確保するために掘り下げられた水路。その名残は今も街のあちこちに残されていました。

参考文献など

  • 『高井田誌』,2015
  • 『東成郡誌』,大阪府東成郡,1922
  • 『東成区史』,1996
  • 『布施町誌』,布施町,1929
  • 『大阪の川』,1995
  • 『さがしてみようちょっと昔の東成』2008.3
  • 『布施町全地図』 大時舎新聞舗 1931.11
  • 今昔マップ

高井田の戦い

石山合戦

難攻不落の大坂本願寺

 織田信長と大坂本願寺(一向宗)の間で繰り広げられた戦国史上最長の戦いで、元亀元年(1570)から十一年もの歳月をかけて戦われました。大坂本願寺は現在の大阪城の場所にあり、川や湿地帯に囲まれて鉄壁の守りを固め、まさに難攻不落といえました。信長は若江城を本願寺攻めの拠点とし、いくつかの砦を設けて包囲しました。

高井田の戦い

 天正五年(1577)二月、信長は天王寺砦の支援の兵を集めるため、僅か百人ほどの供回りを従えて四天王寺から奈良街道を経由して京へむかいました。 その情報を聞きつけた足代(あじろ 現在の布施駅周辺)の豪族、小寺美濃守宗衛門高仲は本願寺に味方し、一族を集結し待ちて伏せて信長を襲撃しました。

高井田の戦い 地形の特徴

場所の特定

 この戦いがどこであったのか、おおよその地図をuMapで作成したので掲示します。
 織田信長一行はこの地図の南側から剣堤を北上しこの場所から暗越奈良街道を東に進んだといわれています。地図を見ると暗越奈良街道はここでクランク状に折れ曲がっているのがわかりますが、これは剣堤が関係していて、剣堤とその東にある卯の堤が高さ4~5mほともあったため堤を上る必要があったためです。剣堤の西側は長いスロープ状の堤を設けて剣堤に達し、東側はいったん北に折れて卯の堤の「のり面」を斜めに降りるような格好になっていました。
 布施井路はこの部分が幅が広くなっていて船溜まりになっていたそうで、この池の堤防の北側であれば奈良街道が地表に降りきった場所で、池の堤防に隠れる事ができ堤防の上から攻撃できる。小寺高仲はこの池の北側の堤防裏で待ち伏せしたのではないかと考えられます。

現在の様子

 付近の現在の様子を北から撮影。「ブランドーリふせ」のアーケードがかつての剣堤にあたる道で、その東(左)側に建物が二つ並ぶあたりが池があったとされる場所、さらにその隣には暗越奈良街道だった路地があります。
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如意輪観音石像

 ひと筋北側の道沿いに石灯籠と小さなお堂があり、お堂の中にはわりと立派な如意輪観音石像が祀られています。以前は暗越奈良街道沿いにあったけど産業道路建設のときに現在地に移設されたそうです。
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如意輪観音石造
 石像は江戸時代中頃に移り住んだ人がこの地に家を建てる際に土中から見つかったもので、明和二年(1765)にお祀りするとき念唱寺より台座が寄進されたとの事。
 さて、このお堂と石灯籠の西側は一軒挟んで駐車場になっていて、向こう側の道の奥にちょうど暗越奈良街道が南北に折れ曲がった道が見えています。
DSCN3273.jpg
 よく見ると駐車場の真ん中あたりの地面が高くなっていますね。この辺りは洪水による土砂の堆積や近代の道路整備などでだいぶん地形が変わってしまっていますが、もしかしたらこの盛り上がりが池の北側の堤防の一部で、小寺高仲らはこの写真を撮ったあたりで待ち伏せしていたのかもしれません。

戦の結末

返り討ちに

 奇襲をしかけた小寺勢でしたが、結果的には一方的敗戦となり高仲は十八歳の若さで討ち死に、手勢は悉く惨殺され凄惨をを極めたといいます。先述の如意輪観音石像はこの戦場近くで見つかった事から、後の人がその供養のために祀ったのではないかといわれています。

その後の顛末

 高井田の戦いで信長方で功績をあげた飯島太郎左衛門は、その恩賞により高井田村を授かり庄屋を務めました。その息子の飯島三郎右衛門は大坂夏の陣で豊臣方の武将木村重成の道案内をしたと伝えられ、近鉄若江岩田駅の南数百mにあるスーパーの向かい付近に飯島三郎右衛門の墓があります。
飯島三郎右衛門の墓
飯島三郎右衛門の墓 碑文
 大坂の陣の史跡は以前何度も調べて自転車で走ったのですが、こんなところで歴史がつながっているのが中々面白い。
 
 小寺家は信長襲撃失敗で家名断絶領地没収となったため、高仲の母方の「塩川」を名乗る事になりました。東足代の塩川家といえば地域の名家で、小泉純一郎内閣で財務大臣を務めた「塩爺」こと故・塩川正十郎氏が子孫にあたります。
 塩川家の邸宅は布施駅南側の商店街に囲まれた中にありますが、個人宅の写真をアップする訳にはいかないし、ご近所の写真屋さんのショーウィンドウに塩爺の写真額が飾られていたのでそれを掲載。
塩爺
 なお、江戸時代に建てられた旧塩川家長屋門が服部緑地の「日本民家集落博物館」に移築、入口門として活用されています。
布施の長屋門

おわりに

 「高井田誌」を手がかりに高井田の戦いについて記述してみました。まさかこの小さな戦いが大坂夏の陣の飯島三郎右衛門や、のちに「塩爺」として知られる塩川家へとつながっていくとは思いもよりませんでした。歴史とは、その時代だけで完結するものではなく、後の時代や今へと連なっているのだということを実感させられます。
 
参考資料
高井田誌 名村利夫/編著 モノづくりの街高井田研究会 2015
布施町誌 布施町 編 布施町 1929
布施市史 第2巻 布施市史編纂委員会 編 布施市 1967

千間川跡

千間川(せんげんがわ)

 千間川は「千間井路(せんげんいじ)」とも呼ばれる人工の水路でした。現在の東大阪市高井田の馬の頭(うまのかしら)樋門から城東区と東成区の境界を通り平野川まで続いていました。その長さが千間(約1.8km)あったことが名前の由来です。その後、水質の悪化などにより昭和40年代に埋め立てられ、現在は跡地の一部が公園や緑道として整備されています。

千間川と緑橋碑

ネット情報の疑問

 「千間川 - 大阪市城東区」など一部のネット情報によると千間川は明治初年に開削されたとありますが、高井田付近は周りの地域よりも土地が低いためこの地域の排水路であるならばもっと以前から存在していたのではないかと思い、いろいろ調べていた所、東大阪市立図書館で「高井田誌」という郷土資料を見つけ、そこに千間井路開削の経緯のほか前後の歴史的事実など大変面白い話が掲載されていましたので、大いに参考にさせていただきつつブログ記事にしてみようと思いました。

千間井路の起点

 千間井路が高井田地域の排水路だとしたら、その起点はどのようになっていたかを「今昔マップ 明治41年(1908)測図」の地図で見てみます。

 旧地図で南北方向に通るクネクネした堤上の道が剣街道、この堤は剣堤とも呼ばれかつては摂津と河内の国境でもありました。中央付近から西に伸びている黒い筋が千間井路で、よく見ると千間井路は剣堤を潜って東側まで達しています。さらに剣堤の東側に堤に平行するような水路らしきものがあり、少し北側には溜池状のものが見えます。剣堤を潜る所が馬の頭樋門と思われます。

剣堤

剣堤付近の地形

 剣堤が造られた時期は、「日本記略」の大同元年(806)十月条にある「河内と摂津両国堤を定める」に相当すると考えられています。堤の高さは年代や場所により異なりましたが、西高井田近辺では江戸時代初期には地表から一丈数尺(4~5m)にも達していたと伝えられています。
 この付近の地形を「国土地理院 治水地形分類図」で表示します。
 高井田を挟んで北側の放出・森河内や南側の布施・深江付近は自然堤防跡の微高地が伸びていますが高井田付近は低地で人工盛土を示す茶色線がクネクネと南北に伸びています。この盛土が剣堤になります。つまり高井田付近以外の場所は自然堤防跡を巧みに利用し、低地であった高井田付近では大規模な人工盛土による築堤が行われたと推察されます。

布施井路と卯の堤(うのつつみ)

 高井田付近の堤の土はどのようにして調達したかというと、人力に頼っていた当時は遠くから土を運ぶ事は困難なため、堤の東側の地面を掘って水路を造りその土で盛土を築きました。その時に出来た水路が布施井路で、森河内付近で大和川の本流である久宝寺川(現在の長瀬川)に合流していました。
 しかし、久宝寺川は大和川の本流であるため増水すればその濁流が布施井路へ逆流して剣堤の東側一帯が水浸しになるため、布施井路の東側にも堤防が築かれました。東の方角を指す「卯」をつけて「卯の堤」とよばれました。

千間井路開削

千間井路開削まで

 剣堤の東側の排水を担う布施井路は、久宝寺川の川床が上昇するに伴い年を追うごとに悪化し、「中河内郡誌」によると、高井田・森河内は両村合わせて旧高二千三百石の田地の十分の六が常に水下になり百姓困難を極めたとあります。そのためこの地域の排水路の陳情が何度もあったようです。開削に至る主な経緯は以下の通り。
  • 元和五年(1619)、時の代官松村吉左衛門が悪水排出の事請願するも要領を得られず。
  • 寛文五年(1665)、阿部四郎五郎、松浦住右衛門両人上方大川筋検分の節訴へ出て翌年十一月阿部四郎五郎前田作右衛門下向して調査
  • 寛文七年(1667)、調査の結果から代官鈴木三郎九郎に仰付け長さ一千一百二十間幅四間双方堤高六尺根敷二間半馬頭五尺上下樋二ヶ所公儀御手許より普請。
という具合に、ようやく千間川の開削がなされました。

千間井路工事の概要

 排水路は、布施井路を馬の頭(高井田五丁目の北西)から西へ分岐して中浜の南で平野川に合流、大和川(久宝寺川)の逆流を防ぐため布施井路は森河内の北西で堰き止められました。平野川はかつて大和川の分流でしたが、剣提建設以来は分離し東除川・西除川の水が流れるのみだったので久宝寺川のような天井川になっていないため排水しやすく堤防高さも2mほどでした。剣堤と卯の堤は久宝寺川の堤防に合わせて高さ3m以上ありましたが、千間井路開削に伴い同じ高さに削り下げられたそうです。
千間井路の位置「高井田誌」より

大洪水

 千間井路開削により人々が定着しはじめた矢先、井路完成から僅か7年後の延宝二年(1674)六月、大和川の堤防三十五箇所が決壊するという大洪水が発生、それから3年連続で大洪水に見舞われたことで西高井田村は壊滅し、以降約30年もの間人の住まない荒地と化しました。

大和川の付替えと千間井路の改修

大和川付替えと集団移住

 大和川では川床の上昇により水害が年々激しさを増し、特に延宝二年の大洪水は大阪平野一帯に甚大な被害をもたらしました。大和川の水害対策は地域住民の悲願でしたが、ついに宝永元年(1704)付け替え工事が断行されました。延長約14km、川幅180mもの人工河川を僅か8カ月で完成させるという一大事業でした。
 大和川付替え事業は後に旧河川跡の広大な土地が出現して新田開発が盛んに行われますが、工事に際しては新流路予定地での大規模な立ち退きがありました。当時荒地になっていた西高井田地域はこの頃に土地を失った人たちが移住してきたと考えられます。

千間井路の改修

 西高井田に再び人々が定住するようになると、地域の主要な排水路として千間井路の改修が行われました。「中河内郡誌」にはこのような記述があります。
正徳二年[1712]高井田村庄屋森河内庄屋、其他年寄数人の盡力により樋の伏せ替、井路浚渫工事を行ふ、総て百姓普請にして坪数二千六十坪、人足四萬七千二百六十八人を要せしと伝ふ。
出典:中河内郡誌 1923
また『高井田誌』によれば、このとき「卯の堤」の東側に新たな排水路を切り開き、従来の布施井路を埋め立てたとされています。これらの改修工事と先の大和川付替えによって、西高井田は水害の不安が解消されようやく安住の地となりました。

おわりに

 千間川(千間井路)に関して、開削の経緯を調べて記述しました。街なかにあるこんな僅かな地形の痕跡にも地域の歴史が隠れていて感慨深いです。今回参照した資料で先にも述べた「高井田誌」が非常に内容が充実していて面白く、この本からあといくつか調べたいものを見つけたので、またブログ記事にしたいと思います。

参考資料
高井田誌 名村利夫/編著 モノづくりの街高井田研究会 2015
中河内郡誌 中河内郡役所 大阪府中河内郡役所 1923
布施市史 市制拾周年記念 布施市 施市役所 1949